-------------
  リアリティ  
-------------


頭が、ボーっとする。
足元もおぼつかなく、目の前が暗い。
帰ったところで、何が良くなるのだろう――
そんな思いにかられ、早退の意味を考え直したくもなってくる。

現在の武之内空の体温、38度2分。
彼女は2時間目が終わってすぐに、家に帰ってきた。

「ただいま…」

小さく呟いて、空は部屋へと向かった。
ちゃんと分かっている、今日は母親はいない。
空は薬を飲み、パジャマに着替え、布団を敷き、その中にもぐりこむ。
寒気が止まらない。
カタカタと小さく震えているうちに、不意にあたたかいものが頬を伝う。


人はなぜ、病気になると不安になるのだろう。


空は枕に顔をうずめ、肩を震わせて泣いた。
カチ、カチ、と時計は何事も無いかのように歩みを進めた。







「……」
いらいらしながら、太一は時計を睨んだ。
昼休みまで、あと35分もある。
(ちくしょー、早くメシ食ってサッカーしてぇのに…)



何となく、窓の外を見た。
外は快晴、絶好のサッカー日和だ。

(あー、やっぱ早くサッカーしてぇッ!)
太一がぐしゃぐしゃっと頭をかきむしった時、

「八神!」

前からチョークが飛んできて、
太一の額にクリーンヒットしたのだった。







ぶる、っと身体を一瞬震わせて、空はおそるおそる布団を出た。
と、途端に強い震えが襲ってくる。やはり一瞬ではすまなかったか。

(確か、冷蔵庫の中に)
ジュースが入っていたはずだ。


いや、そんな事より

氷枕を。


ふらり、とよろけて、空はテーブルに手をついた。
またじんわりと涙が込み上げる。
それを慌ててぬぐって、自分を叱咤する。

 泣いてても、仕方ないじゃないの。
 しっかり、しっかりしなさい、空。


ゆっくりゆっくり冷蔵庫前まで行き、1番上のドアを開けた。
ひやりとした冷気が、空に襲いかかる。
きゅっと目を瞑り、情けない思いで氷枕をとりだした。


今まで簡単に出来た事が、何一つ出来ない。
手に持った氷枕の冷たさに、空の感覚は麻痺していく。
悔しくて、悔しくて。

「…ッ…、」

手から氷枕が落ちて。
がくっ、と空の膝がおれた。

冷たい冷たい空の手に、熱い熱い涙が落ちた。



時間は、何もいわず流れていった。







「は?空が早退しただぁ?いつの話だよ!」
「2時間目の話だよ」

昼休み。
太一が校庭にに向かうためにサッカーボールを抱えて歩いていると、
それを見てヤマトが走ってきて、開口一番、
「お前、もう空にメールしたか?」
と聞いたのだ。

首をかしげた太一に、ヤマトは「何で」と問い、
「何で『何で』なんだ」と太一が問い返し。


そして、現在に至る。


「んー…じゃあ、見舞いに行くべきだよな、俺」
「ま、空は芯が強い分不安だろうな。少なくとも、俺よりお前の方が適任だ。任せたぞ、太一」

ぽん、と肩を叩き、ヤマトは楽譜を持って音楽室へと歩いていった。
それと反対方向――下駄箱の方へ、太一は歩き出す。

――無断早退した太一が次の日、罰として数学の計算100題を課されるなど、誰に予想が出来ただろう…。







半ば這いずるように布団にたどりついた空は、やっとの思いで身体を横たえた。
眠らなきゃ、よくならないから。
目を閉じて、自分を落ち着けようとする。
大丈夫、大丈夫、きっと眠れる。

カチ、カチ、カチ…

時計の音だけが静かな部屋に響く。
どうしようもない思いだけがこみ上げてきて、

胸の辺りが締めつけられる。


 お母さん…
 今頃、生徒さんに教えているはず…
 決して邪魔は出来ないわ。

 お父さん…
 最近、帰ってこないけど…
 心配なんか、かけられない、研究は大変なんだから…。

 ヤマト…
 …忙しい、よね…
 近いうちにライヴがあるって…楽しそうな顔で、言ってたし…

 太一…
 来て、ほしい…でも、ううん、ダメだわ…
 太一だって、きっと今頃、サッカーをしてるもの…


 ピヨモン…
 …でもきっと、ピヨモンには会えないわ…
 もう…デジヴァイスは、動かない…

空の頬に、いくつめだろう、涙の筋が新たに刻まれる。
手を伸ばし、机の上に置いてあった、もう反応する事のない冷たいそれを握り締めた。
会いたくても会えない事が、こんなにつらい事だなんて。

そして、何も聞こえない静かな不安の中、空は沈黙の眠りについた。







ひんやりとしたものが額に触れて。

 ん…

「気がついた…のか?」

 た、いち…?

「あ、起きなくていいから…」
そっとまぶたを撫でられて。

「…もう少し、寝とけ…」

 うん…

空は再び眠りにつく。
今度は、安らかな眠りに。







先ほどとは違う落ち着いた寝息に、太一はほっとため息をついた。
やはり“冷やす”という行為にはそれだけの効果があるのだろう。

(しっかし、さっきはビビった…)

ドアチャイムを鳴らしても応答がなく、帰ろうかと踵を返した時ドアが開き。
そして空が何か言いたげに口を動かし、そのまま太一の方へ倒れこんできたのだから、驚かない方が不自然だというものだろう。
しかも抱きとめた空の息が荒く、涙の後らしきものまで見えるのだから、ますます驚いてしまう。

大慌てで空を抱きかかえてベッドに寝かせ、
床に捨て置かれていた氷枕を空の頭の下に置き、自分の手を彼女の額にのせた時、空はうっすらと目をひらいたのだった。



「さぁて、」
これからどうしようか。

空が目覚めぬ以上、動きようがない。
うーん、と唸って、太一は空をちらりと見る。

空は静かに眠っている。


太一はかすかに苦笑して、
「空…」


そっと、彼女の髪に触れる。
さらりとした感触を残して、それは太一の指の間からこぼれた。


「…ばか、無理すんなよなー…」



額に、くちづけをおとす。

早く治るように、
ありったけの願いを込めて。







「……、」

あれからどのくらい眠ったのだろう。

「おはよ、空」
「え…、たい…?」


夢だと、思っていた。


「具合、ちょっとはよくなったみたいだな」
「たいち?」

「熱も…うーん、まだ少し熱いか…」

額にのせられた手。
思わず、掴んだ。
「たいち…?太一よね?」


その手の上に、また更に手が重なって。
「何言ってんだよ…」
太一は、笑った。


空も弱々しく微笑んだ。

「よかったぁ…」







「夢だと、思ったの」

空が背中に声をかける。
太一は相槌を打ちながらくるりくるりと鍋をかきまぜた。
いい匂いと湯気がたちのぼる。

「だから…ちょっと、……」
「…そっか」

太一は指をぺろっと舐めて、塩加減を確かめた。
よし、ちょうどいい。


皿にうつして空の前に置く。

「おまたせ」
「…ありがと」


太一は、空の目の前に当たり前のように陣取り、頬杖をついて空を見つめる。


空が、粥を味わう。
一瞬、太一の背筋に緊張が走った。


「…どうだ…?」
「ん…、おいひい…」

――あぁ、よかった。


一口、一口、
スプーンに乗せられて空の口の中に運ばれていく粥に、太一は安堵の笑みをこぼす。
メシ食えるんなら、すぐに治るよな。

「太一」
「ん?」
「少し、食べる?」


「…は?」




「だって、おなか減ってるんじゃないの…?」
「な、何で…;」
空が軽く首を傾げる。
「ずっと、お粥見てるから」

 …バーカ。
 見てんのは粥じゃねぇって。


「俺は平気。お前、しっかり食えよ」
「え、でも…」
「“でも”じゃないだろ。ちゃんと食って早く治せ」

せっかく俺が心を込めて作ったんだから。



空は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。

「うん…分かった…」



暖かくなった部屋の中で、
気づけば、時計の針は、優しく時を刻んでいた。







温かい布団の中、身体だけを起こした空。
彼女は、傍らの彼を見上げた。
布団の横の彼はまだ、いてくれている。
その右手は、空の手をしっかり握っていて。

「たいち…」
「ん?」

心なしか、彼は優しい。
いつもと違う、大人びた雰囲気に何だかどきどきしてしまう。

「何か飲みたいのか?」
「違うの…あのね、もう、大丈夫だよ、私。」
「……」
「だから、太一、」
「…泣いてたくせに」

思わず、空は手を頬にやる。
やはり太一にはばれてしまっていたようだ。
隠しておきたかったのだが。



不意に、太一が無言で立ちあがった。
空ははっとしたが、やがて俯く。

 帰るんだわ。

太一が鞄を拾い上げたのが分かる。

 そうよね、いつまでも私に構ってられないもの
 私が、大丈夫って言ったから、やっと帰れるのよね…。


 ……


 …ごめん、やっぱり
 お願い…本当は


呼びとめたくて、空は顔をあげた。
そしてすぐにその必要がない事に気づく。

太一が、空の目の前にこぶしを突き出していた。



「これ、食っとけ」
「…太一?」


太一が手をひらく。
そこにあったのは、小さなイチゴ飴。

「元気、でるぞ」

空がそれをおずおずと受け取ると、太一は言った。



「『大丈夫』なら、何で、泣いてるんだよ」

「え?」




太一は不服そうに言った。
「もっと頼れよ。わがまま言えよ。どうしてそうやって我慢するんだよ」
「だって…」

 迷惑でしょ?

「あのなぁ…何のために俺がいるんだよ」
「……」
「ちゃんと言わなきゃ、何もわかんねーだろ?」




 本当は、本当は

ぽろっと涙が一粒。
あ、と思った時には、涙は堰切って溢れ出していた。
「太一…!」

 ごめん、ごめんね、
 ワガママなんだけど

「もう少し…、そばに、いて、ほしいの…っ」


泣きじゃくる空に、太一は苦笑した。
「バカ、ちゃんと分かってるって。ここにいてるから」

太一が空の頭を優しく撫でる。
空は、何度も何度も頷いた。







横になった空の枕元に、太一がいる。


くだらない話をして。
ただ、笑って。

いつも当たり前のようにしていた事すべてが、こんなにもいとおしい。




そして、





どちらからともなく、唇が一瞬触れ合って。





「おやすみ、空」

――眠るまでは、何があっても絶対に傍にいるから。


ゆびきりをした後、
空はそっと、目を閉じた。


雰囲気を変えて書いてみました。いかがでしょう…
背景画像きたなくてごめんなさい。実は自分で作ってみました。でもキュー●ーコーワゴールド…(風邪薬じゃありません)
「リアリティ」…私がインフルエンザになる前日、保健室で大泣きしたのですが、それをもとにしてみました。
保健の先生の優しさは忘れません。怖いと思ってた事、申し訳ないです。

>>Back